『法律家の論理』(カイム・ペレルマン, 1979年)

ペレルマン『法律家の論理:新しいレトリック』(江口三角訳、原著1979年、訳書1986年、17-18頁、木鐸社

われわれが経験していることをできる限り綿密に分析しようとする場合、まず認めなければならないのは、法的推論は絶え間ない論争を伴うものであり、しかも、この論争は最もすぐれた法律家や、最も威信のある裁判所の裁判官の間にも存在するということである。学説や判例に見られるこのような意見の対立は、大抵の場合、不合理な解決を除外した上で、権威による解決という方法に訴えることを余儀なくさせる。この場合の権威は、多数の権威のときもあれば上級審の権威のときもあるが、多くの場合は、両者が組み合わされたものである。この点において、法的推論は、科学、特に演繹科学(sciences déductives)――そこでは、計算や測定の方法について、意見の一致に到達するのは、はるかに容易である――に特有の推論から区別されると同時に、哲学や人文科学で遭遇する推論からも区別されるのである。哲学や人文科学では、意見の一致が見られない場合には、その判定によって討論を終結させることのできる判定者(juge)が存在しないために、各人は自己の立場に固執する。法的推論は、常にといってよいほど、論争の対象となるものであるから、純粋に形式的なものである演繹的推論とは対蹠的に、いわば非人格的に正しい(correct)とか正しくないと考えられうることは、ごく稀にしかない。立法者、裁判官、行政官のいずれであるかを問わず、法に関して決定する任務を負う者は、その決定について責任を負わなければならない。その主張(thèse)を支えるためのよい理由として、どのような理由を援用する場合でも、その者の人格的関わりは避けられない。というのは、ある解決に有利に作用するよい理由には、別の解決のための、多かれ少なかれよい理由が拮抗しているのが通常であって、そうでない状況というのは稀だからである。個人によって違いが生じうるのは、したがってまた、個人が下す決定の人格性を浮き彫りにするのは、これらの理由に対する価値判断――この判断は極めて稀にしか計算・計測・測定に還元することができない――である。

訳者あとがき(324–325頁)

 一見消滅したかに見えたレトリックは、他の学問のなかに、とりわけ法や法学のなかに生き続けていたのである。たとえば、法律家にはなじみのものである類推解釈、反対解釈などの解釈方法——それはフランス語ではargumentつまり議論法である——も、レトリックに由来する。著者がなし遂げたのは、このように様々な学問の中に身を潜めていたレトリックを発見し、これを議論の理論として復活させることであった。[...]

とりわけ、本書に登場するレトリック関係の概念は、レトリックそのものがわれわれにはなじみの薄い学問であるため、完全には訳し切ることができなかった。たとえば、本書の中心的概念であるargumentation(議論)の場合がそうである。ただ、幸いにして、われわれ法律家は法廷の場面を思い浮かべることができる。訴訟の当事者(話し手)は、それぞれが掲げる主張について裁判所(聴き手)の同意を獲得するための弁論(ディスクール)を展開する。これが議論である。裁判所は、両当事者や世論の同意を得ようとして判決の理由づけ(正当化)をする。裁判所も議論しているのである。このように、当事者主義の訴訟は、それ自体がレトリック的に出来上がっているのである。したがってレトリックは、真理という概念ではなく、同意という概念を中心として構築されているという理解を前提にして、これらの概念は括弧をつけて、例えば「議論」として読んで頂ければ幸いである。