ルールと習慣

ルールの内的側面は、しばしば、外的に観察可能な物理的行動との対比で、「感じ方feelings」の問題として誤って説明されることがある。確かに、ルールがある社会集団に広く受け入れられ、社会的な批判や同調への圧力によって広く支えられているとき、しばしば個々のメンバーは、制限とか強制といったものに近い心理的経験をするかも知れない。一定の仕方で行動するよう「拘束されていると感じる」と言われるときは、こうした心理的経験をしているのだろう。しかし、こうした感じ方は、「拘束力ある」ルールの存在にとって必要でも十分でもない。人々が特定のルールを受け入れてはいるが、そうした心理的強制を誰も感じないとしても、そこには何の矛盾もない。必要なのは、特定の行動のパターンを共通の規準とする批判的・意識的な態度であり、この態度は、自己批判を含む批判や同調の要求、およびこうした批判や要求を正当とする承認としてあらわれるし、こうした批判、要求、承認は、そう「すべきだ」「しなければならない」「正しい」「誤りだ」といった規範的用語を使って表明される点に特徴がある。これらが社会生活のルールと単なる人々の習慣とを区別する肝心な特質である。

(H・L・A・ハート『法の概念』第4章「主権者と臣民」訳書106–107頁(原著(第3版)2012年、長谷部恭男訳2014年))

キケロ『義務について』と同時代の政治情勢

Emilio Gabba, 1979, ‘Per un'interpretazione politica del de officiis di Cicerone’, Atti della Accademia Nazionale dei Lincei, Rendiconti, Classe di Scienze morali, storiche e filologiche, 34, 117–141.

 

117–122頁の日本語訳

 このキケロの著作のうちでおそらく最も有名な著作の執筆にかんして、われわれは不十分にしか情報をもっていない。ともかくも、その執筆は44年の9月と11月のあいだに収まる。その草稿は、いく人かの人々がテキストの混乱した状況も根拠として考えているほどには大急ぎのものではなかったはずだが、とはいえそれが迅速に、また資料の点で余裕の乏しい状態でなされたことはたしかである。全三巻のうちにみられる政治的省察や理論的省察の豊かさは——たとえそれがキケロが手本にした(一冊か複数の)書物からの影響であったとしても——本物であるから、キケロは、歴史の特殊な状況のもとで、新たな政治的責務の要請のために、書面で以前から熟考を重ねて成熟させていた考えをもっていたのだと考えるべきである。

 この場でカエサル暗殺後の44年のできごとの劇的展開を追跡する必要はない。ただし、以前は独裁によって押さえつけられていた3月15日のあとでローマの政治的・文化的・社会的生活は、刷新された多様で顕著な熱狂を経験し、この熱狂はアントニウスの新たな台頭のプレッシャーのもとでも持続していたことは思い出しておかなければならい。このことについて、伝統的には政治的責務回避の立場をとったローマのエピクロス主義者たちの大部分を熱烈に巻き込んでいった愛国的使命のことを考えれば十分である。

 『義務について』が誕生したのは、希望と幻想、そして過去と未来についての考察、さらに人間の好意および政治的状況についての分析からなるこうした熱狂的雰囲気のただなかにおいてであった。この熱狂的雰囲気とはすなわち、『栄光について』や『友情について』もまたそのうちに置かれることになり、またそれを理由としてそれらの著作の執筆年代が『義務について』よりも僅かに先行するとする判断が好まれるところの、まさにその政治的および知的な環境のことである。また、この著作と合わせて読まれるべきほぼ同時代のテキストが存在する。それは有名な『ピリッピカ』第二弁論である。『義務について』の解釈のためにも、[両作品の]政治的判断や歴史についての評価——『ピリッピカ』においてはそれは直接的な政争の文脈のなかに埋め込まれているが——の合致は示唆的である。

 以上のことはすべておそらくあらためていうようなことではないかもしれないが、この場で私がそれを繰り返したのは、それらから重要なことが帰結が導かれるからである。『義務について』は、その歴史的個別性において、すなわち政治および人間についての証言としての価値にもとづいて研究されなければならないということである。キケロの先行する政治的および実践倫理的議論——私が意味しているのは特に『国家について』と『法律について』である——と比較することは、たしかに可能であり、キケロの思想の展開を素描するために役立つが、しかし先行する考察との一致よりはむしろ差異がそのうちで多く生み出されている歴史的文脈の違いを最大限に考慮しなければならない。キケロによって遂行された、ギリシア哲学の教説や理論をローマ的な方向へと規範的に政治化すること[normale politicizzazione]が、この44年の最後の著作においていっそう強く際立たせられていることはあまりにも明白である。P. A. Bruntによって、『友情について』および『義務について』にかんしてすぐれた仕方で指摘されているように、ギリシアのモデルを政治的議論を行う著作のなかに取り入れるというキケロの行いについて重要なことは、キケロギリシアの理論をローマの現状に適用する——というよりはギリシアの理論をローマの経験にもとづいて再確認し描写する——という営みのなかでそれにもかかわらずもっていた根本的な独自性[独立性、オリジナリティ]である(cf. Brunt 1965, 'Amicitia in the Late Roman Republic')。

 言葉を変えれば、ギリシアのモデルとの関係は、モデルがそのうちにおいて息を吹き返し、新たな文脈のなかで解釈され、それによって著者の思想を新たな歴史的・イデオロジー的文脈のなかで理解するために役立つ限りにおいて、重要性をもつのである。私はこうした考え方がまさに歴史家の考え方に他らなないことをよく知っており、キケロの著作を、そのギリシアのモデルの(それがなんであれ)真の内実へと到達するために研究する古代思想研究者の研究の正当さを否定するものではもちろんない。しかしながら、私はこうした研究の手続きはキケロおよびキケロがそれをめざした目的を矮小化するものだと考える。まさにキケロの思想と意図をよく把握することの模索のためにこそ、われわれは少しあとで、キケロとその典拠(基本的にパナイティオス)の関係というこの問題——これはキケロが自分のモデルをどう選んだのかという問題でもある——に立ち返ることにしよう。

 しかしまずは、伝統的に『義務について』のストレートな理解を阻んでた障害を取り除いておくことが必要だ。すなわち、この著作の後代における影響、とりわけ近代におけるそれである。近代において『義務について』はしばしば、近代的校訂のすぐれた編者がいうように(Testard I.51-2)、「ラテン作家のうち最も高名なヒューマニズムの父から未来の世代に宛てて、彼らのために託された、古代世界の道徳的遺産」とみなされてきた。後の時代の(とりわけ——私は繰り返す——近代における)キケロの著作を、そこから道徳的ふるまいのモデルを引き出すために利用したことは、ヨーロッパの文化史における深刻で重要な問題を表すものだが、著作の元来もっていた意味とはなんの関係もない。こうした後代の利用が、キケロの著作それ自体のうちに、それ自体がもたないか、あるいは少なくとも、歴史的・政治的な意味を曇らせてしまうような、理由や解釈を模索するきっかけをもたらしてきた。『義務について』が提示するhumanitasのメッセージの価値を——それは非常に保守的でほとんど進歩的なものでないという理由から——否定する人々もまた、この著作の模範的価値を主張した(あるいは主張している)人々と結局のところ同じ地平に立っている。しかし両者ともに、キケロの思考のごく純粋な展開をあまり理解していないように思われる。

 キケロのテキストから外れたこうした諸々の解釈(それは結局のところキケロのテキストを歴史的モーメントから疎外してしまう)の基礎にあるのが、ある一つの誤解であり、これを以下ですぐに(可能な限り)明確にしなければならないである。しばしば、もっともなことだが、『義務について』はキケロ知的および政治的な遺書なのだと繰り返される。しかしこれはどういう意味においてなのか。私の議論の結論を先取りしていうなら、キケロがこの、自由の終焉のあとで自分が生き残るつもりはないという意志を繰り返し(ほとんど予兆のような仕方)言及する著作によって意図していたことは、たんに、将来に役立つようになるはずの政治的行動や政治的生活のモデルを再び提案することにすぎなかったわけではなく、大きな危機の時期にあって、また政治状況の新たな特徴についての深い自覚のなかで、きわめて高い価値や理想を——つまり彼がそれを信じてきた、またそれのために一貫して戦ってきたもの——再び主張しようとしたのである。つまりキケロは、ローマの国家の文化的およびイデオロギー的な基礎——これにはimpero[絶対的権力]の歴史的正当化も結びついている——を、またローマ的な政治生活についての理想的な(ただし理想化されたものでもある)理想を、そして政治的生活そのものとともに植え付けられるべきであった政治的ふるまいの仕方を、再び確立しようとしたのである。

 もしわれわれが、キケロが『義務について』で意図していたこのきわめて高い目的を考慮するなら、息子にせよローマの若者にせよそうした人々に向けられた教育的・道徳的な臨時的目標は、副次的なものへ下がってゆくことになる(cf. Testard1962)。しかし[また?]、もしわれわれが1.78という有名なパッセージを——そこでキケロは息子に対して、栄光の遺産や63年のみごとな執政官という模倣されるべき典範が息子にどのように受け継がれるかを語っている——ほかならぬ国家の理想と結びついた倫理的および政治的遺産という意味で解釈するなら、有名な要因はその真の政治的意味をriscattare[解除される・取り除かれる]されることになる。換言すれば、キケロは、——彼はこの作品において対話篇の形式を放棄し、聴き手に対して直接的に議論を展開しているのは無駄なことではない——息子に対して、ほとんど未来および遠くない死の予言のようにして、自身の政治的信条の要点をまとめて言っているのである。キケロの他の著作(Rep.やDe or.やCat. mai.やLael.)において、「先行する世代の偉大な人物たちが、その死の直前において」親類やきわめて親しい友人たちに対して、自分の省察を、ほとんど自身の生と行為の原則についての最後の証明として、提示しているのと同様である。

 

136–137頁の日本語訳

 キケロはいつも通り、この著作においても文化的・政治的影響力を展開することを意識しており、またおそらく「文化の組織化」というカエサルの企図との関係においてもそうである。この文化的・政治的影響力の目的は、現在だけに尽きるものではなかった。キケロ自身の時代のローマの政治的階級(あるいはむしろ潜在的に政治的な諸階層)に、異なる歴史的文脈において少数のエリート向けに——彼らはすでに文化的に鍛えられており、まさにこの理由から、彼ら[潜在的に政治的な諸階層]を同化するすべを心得ているのである——作られた理想や態度を提示することが可能なのかについては疑いが大きなままに残る。また、カエサルの独裁と彼の劇的な遺産がキケロの提案に新たなアクチュアリティを与えていたことは本当であるものの、しかしながら、キケロがあてにしてきた、そしてまた「あらゆる善き人々の合意」という自身のプログラムと密接に関連する仕方で再び彼があてにしたイタリアの中間階級は、1世紀半ばにおいて、いまや大きく異なる感受性や準備や利害関係をもつようになっていた(Lepore, Il princeps ciceroniano 344ff.)。

 内戦後のローマにおけるイタリアの有名な人々の水平的移動は、伝統的な指導者階層を強化し、あるいはむしろその基盤を拡大した。しかし、多様な伝統ならびに大きく異なる文化的諸前提から出発している新たな諸力が、上流階級の刷新という展望と精神においてキケロが擁護した、政治的・文化的な使命がもつ目的や含意を、すぐさま受け入れることは難しかった(cf. Gabba 1978, 'Il problema dell'unità dell'Italia romana, in La cultura italica pp.17-22)。E. Leporeがすぐれた仕方で示したとおり(Lepore 1958, 'Da Cicerone a Ovidio: Un aspoetto di storia sociale e culturale', pp.90ff.)、キケロは、傾向として穏健でありまた昔の道徳性の蓄えを豊かにもっているイタリアの有産中流階級のなかに、刷新された健全な政治的階級という理想を中心として彼ら[イタリアの有産中流階級]を集結させる「合意[consensus]のための自然的基盤を見たと考えていた。キケロの企図は、「イタリアのこの諸階級のためにギリシアの文化的経験を再紹介[reinterpretare]すること」(Lepore)というまさにこのことであったのであり、この「ギリシアの文化的経験」は2世紀におけるローマの貴族たちのためにすでに準備されたものであった。しかし、このイタリアの[有産中流]階級の穏健主義というまさにこれこそが、政治生活への積極的関与を拒むとともに具体的な経済利益を守ることに専念することへの彼らの個人主義的傾向を助長したのである。キケロカエサルのことをカティリーナのような種類の革命者として造形することによって示そうと努めたのはそれ[中流階級の要求をカエサルが保証すること]とは反対のことであったとはいえ、これらの諸階級の大部分が、自分たちの要求はカエサルの経済主義的政治によってよりよく保証されるはずだと考えていたことは確実である。しかし、政治的責任の解除への望みは、幻想であったことがのちに明らかになり、また三頭政治自裁の嵐や財産没収により壊滅したこの諸階級が、ある種の安全性を見いだしたのは、後36年以後、オクタウィアヌスの新たな政治によってであった。

 他方では、スッラの時代以降、イタリアの地方の諸々の異なる要素が——軍隊のレベルにおいて、前2世紀の農民階級が危機に陥っていたことや、軍には社会的に共通の出自があったことと関連するような諸々の要求からおのずと生じてきた収束に向かう仕方で——融合してゆくプロセスが徐々に進展していっていた。このプロセスは、自治都市のブルジョワジーたちをも、軍隊が利用した新たな要素の出現のために彼らを編成することにおいて彼らを変容させるという仕方で、巻き込んだ。政治的・愛国的な理想への一般的な無関心が強調され、またいっそう悪いことには、この無関心から、(サルスティウスがそれを嫌悪した cf. Iug. 4.7)homines novi[新入り・新人]の偏見を排したカテゴリーからより高い官職者への上昇が生じてきたのである。

 あいにくわれわれは『義務について』の公刊時期を、キケロの生前であったのか、それとも死後なのかを知らない。それゆえ、同時代のローマの市民の意識にこの著作が与えた影響について確実なことをなにも言うことができない。とはいえ、ある仮説を、つまりそれが受け入れられたときには、キケロの著作がその文化的・政治的な深い意味を直ちに理解されたと示すことになるような仮説を提出することで無謀な人だと思われてしまうことは私は望まない。キケロのいくつかの発言を、サルスティウスの(徳に『カティリーナの陰謀』における)歴史叙述におけるいくつかの類比的な特徴的と[似たものとして]比較することが度々必要とされた(注38:これについて二つの重要な著作Syme 1964, Sallust, La Penna 1968, Sallustio e la rivoluzione romanaを参照)。こうした一致は、容易にふやすことができるだろう。こうした一致は思考をもたらす。最近の批判(Desmouliez, Cicéron et l'ambition littéraire de Salluste, Latomus 37, 1978, pp.25-46)は、キケロとサルスティウスの間の、政治・倫理的および歴史的内容の点であれ文体的特徴の点であれ、度々おこる関係について注意深く考察・研究している。この道の先はさらに進んで、サルスティウスの意図を、キケロにより看過されて空白になった歴史叙述的な空白の文脈を埋めようとする意図としたり、サルスティウスにはキケロを芸術的に模倣ないし凌駕しようとする意図があったと想定するまでにいたった。問題の複雑さは明らかである。まず最初に私は、サルスティウスにはキケロの『義務について』を歴史叙述の点で上回ろうとする明確な意図があったとは全く考えていないことを明らかにしたい。キケロの主張に対する直接的な反論という意図はそこにはない。むしろ私が考えているのは、『義務について』によってサルスティウスには国家の倫理的基盤(キケロにより繰り返し述べられたもの)について再考し、そこから派生する政治的・歴史的含意について再考するきっかけがもたらされたということである。おそらく、サルスティウスの二つの著作[Iug.とCat.]の序文のなかに、キケロがまさに『義務について』で素描した人類学的[antropologico]枠組みの——それと反対する特徴を伴いつつも——痕跡をみつけることができるだろう。私はいくつかの考察へと集中しなければならない。

 

 

それらしく間違う

「認定が難しく、どうも分からない。しかし、真偽不明で立証責任で事を決するほど分からないような気もしないから認定するというようなことは実務としては、かなりあったように記憶します。一般に裁判官が立証責任で事を解決している例は少ないものです。各訴訟の主要なテーマについて立証責任によって処理する判決はあんまりありません。したがって、一応、合理的な疑いを超えた確信に近いながらも、なお一抹の不安の消えないまま認定することも少なくありませんでした。そのような場合、私は、いつも『それらしく間違いたい』、『それらしい間違いをすべきだ」と思い実行してきました」

永島賢也『争点整理と要件事実:法的三段論法の技術』(2017年、265頁)

 

内的対格とimage

M・ウォーノック『想像力』

われわれはイメージについて語ることなしに想像することを語ることはできない。動詞によって表される概念を分析しようとすることは、内的対格としての対象=名詞の使用を意味する。われわれはにおいを嗅ぐ対象に対して内的対格の「におい」[という名詞]を用いることなしには、本当ににおいを嗅ぐことについて語ることができない。同様に、われわれは想像で「嗅ぐ」ときに、心の鼻の前に名詞「イメージ」を必要とする。なぜなら「イメージ」は、「心的におい」「心的音声」「心的外見」などの包括的表現だからである。しかしイメージは、たとえ想像することの説明においてその言葉を使わなくてはならないとしても、それ自体を調べることのできる独立したものとして扱うわけにはいかない。われわれには名詞が必要かもしれないが、それを理解するためには動詞を理解しなければならないのである。したがって、現れてくるイメージをいかに説明するかという問題は、どうしても、何かを想像するときにわれわれは何をしているのかというもう一つの問題となるのである。イメージの問題だけを独立させて、それそのものに答えることはできない。

(髙屋景一訳、法政大学出版局、2020年、訳書251-252頁、一部改変)

 参照

アリストテレスにとって、魂のそれぞれの能力は、その能力にかかわる固有の相関対象(ἀντικείμενον)をもつ。したがって、それぞれの能力の説明はその固有の相関対象を特定することを含むものだった。しかし、ファンタシアーについては固有の相関対象は特定されていない。このことも、ファンタシアーのある特殊な性格を示唆している。」(中畑正志『魂の変容——心的基礎概念の歴史的構成』2011、139頁)

 

近代認識論よりも広い懐疑主義的伝統

Quentin Skinner, Reason and Rhetoric in the Philosophy of Hobbes (1996), p.9

He [sc. Hobbes] was not primarily responding to a set of epistemological arguments. Rather he was reacting against the entire rhetorical culture of Renaissance humanism within which the vogue for scepticism had developed. Nor was he greatly concerned with the technical claims put forward by self-avowed sceptics, whether Pyrrhonian or an Academic stamp. Rather he was seeking to overcome a more generally questioning and anti-demonstrative approach to moral argument encouraged by the emphasis placed by the culture of humanism on the ars rhetorica, with its characteristic insistence that there will always be two sides to any question, and thus that in moral and political reasoning it will always be possible to construct a plausible argument in utramque partem, on either side of the case.

 

人間知性が、その最も完全な状態においてさえ、そして、それが最も精確かつ慎重に何かを決定するときに、奇妙に虚弱であること

ヒューム『人間知性研究』12.23–24

 というのも、ここにこそ過激な懐疑論に対する主要な、そして最も破滅させる力のある反論があるからである。すなわち、懐疑論がその完全な力と勢いをもち続けている間でも、いかなる持続的な善もそれから結果しえないではないかという反論、これである。われわれはそうした懐疑論者にこう尋ねさえすればよい。「あなたの言っていることの意味は何なのか。そして、あなたはこんな物好きな探求でもって全体として何を企んでいるのか」、と。彼は途端に困惑し、何と答えるべきなのか分からないだろう。コペルニクス主義者やプトレマイオス主義者は、互いに異なる天文学体系を支持しているが、いずれも、聴衆に対して、恒常的で持続的であり続けるような確信を生み出したいと願うであろう。ストア主義者やエピクロス主義者は、たんに持続的なだけでなく、振る舞いや行動に作用を及ぼすような原理を提示する。けれども、ピュロン主義者は、自分の哲学が心に恒常的な影響を及ぼすだろうとは期待することができない。あるいは、仮にそうした影響を及ぼせたとしても、それは社会に有益であろうと期待することができない。それどころか、およそ彼が何かを承認すると刷れば、こう承認しなければなるまい、すなわち、もし彼の原理が普遍的にかつ堅固に行きわたるならば、すべての人間の生活は消滅しなければならないだろう、と。すべての談話、すべての行為は、瞬時に止み、自然の飽くなき必要性がこうした人間の悲惨な生存を終結させるまで、人々は完全なる昏睡状態にとどまる。けれども、真には、これほど致命的な出来事は非常にまれなので心配には及ばない。自然は、いつもそうした原理に対してあまりに強力すぎるのである。そして、たとえピュロン主義者が、その深遠なる推論によって、自分自身あるいは他者を瞬間的な驚愕と混乱へと投げ入れることができるとしても、生活のなかの最初のそして最も取るに足りない出来事が彼のすべての疑いとためらいを敗走させ、行為と思弁のすべての点において、彼を他のすべての学派の哲学者たちと同じ状態に、あるいは、哲学的な探究に携わったことが一度もない人々と同じ状態に、とどめるであろう。彼が夢から覚めたとき、彼は真っ先に彼自身を嘲笑することに加担し、自分の挙げたすべての反論は単なるお遊びであって、行為し推論し信じなければならない人類の気まぐれな状態を示すこと以外に、何の趣旨ももちえない、と告白するであろう。とはいえ、人類は、最大限に勤勉に研究しても、こうした自分たちのなす営みの基礎に関してみずから納得することはできないし、それらに対して提起されうる反論を取り除くこともできないのだが。  

 実のところ、もっと穏和な懐疑論すなわちアカデミー的哲学が存在し、それは持続的かつ有用でありうるのであり、また、それが提起する格別重要でない疑いが常識や反省によってある程度矯正されるときには、この哲学は、部分的には、ピュロン主義、すなわち過激な懐疑論の帰結であるともいえる。人類の大部分は自分たちの見解において断定的で独断的に自然となりがちである。そして、彼らがものごとを一方の側だけから眺め、その見解に拮抗する議論など思いもつかない間は、彼らは、自分たちが傾斜している原理へとまっしぐらに没入し、自分たちと反対の心持ちを抱く人々に対して寛大になることがまったくない。躊躇したり対照したりすることは彼らの知性を当惑させ、彼らの情念を阻害し、彼らの行為を中断させる。それゆえ彼らは、自分たちにとってこれほど不安なこの状態から逃れるまで、我慢ができない。しかるに、みずからの信念に対する激しい断定と頑固さを省みて、自分がそうした状態から十分に離れ去ることはできないとも考えるのである。けれども、そのような独断的な推論者でも、人間知性が、その最も完全な状態においてさえ、そして、それが最も精確かつ慎重に何かを決定するときに、奇妙に虚弱であることに気づくようになることができるとすれば、そうした反省によって、彼らはもっと穏健さと慎みをもつよう自然に促され、彼ら自身の愛好する見解および敵方に対する偏見は減じられることだろう。文字を知らない人々は学識者の性向を反省するのがよい。学識者というのは、研究と反省のあらゆる点で優越していながら、決定に際してやはり遠慮がちであるというのが普通なのである。そして、もし学識者のうちの誰かが、本来的気質のゆえに、傲慢かつ頑迷になりがちであるとしても、ピュロン主義のほんのかすかな気配によって、彼らが仲間に対して獲得するわずかな優越などは、人間本性に固有に備わる普遍的いな困難と混乱と比較したなら、まったく取るに足りないものにすぎないということが示され、彼らの自尊心は大いに減じられることになろう。概して、すべての種類の吟味と決定において、つねに正当な推論者に伴うべき、ある程度の疑いと慎重さと穏健さが存在するのである。(一ノ瀬正樹訳)

参照:

キケロ『アカデミカ』(前書第2巻)

2.27(アンティコスの立場から話す対話相手ルクルスの発言)

 しかしもしあらゆる表象があなた方[アカデメイア派]の言うようなあり方をしているのだとしたら、すなわちもし、表象が偽でもありえて、いかなる標識も[真なる]表象を[偽なる表象から]判別することができないのだとしたら、いったいわれわれはいかにして、誰かが何かを論証し、あるいは何かを発見したと言うことになるのだろうか。また、論証についての信頼性としていかなるものがあることになるのか。

 そして、理性[的議論]によって前進するべきものである哲学そのものは、いかなる成果をもつことになるのか。さらに、知恵にはなにが起きることになるのか。知恵は自分自身を疑うべきものではなく、自身の告げた命令——これを哲学者たちはドグマ[δόγματα]と呼ぶ——を疑うべきべきものでもない。この知恵の告げた命令[教説]を裏切ることは犯罪でしかありえない。なぜなら、それが裏切られるとき、真なることや正しいことの法律が裏切られるのであり、この過誤から、友愛をはじめとする公共的な事柄の裏切りが生じてくるのが常だからである。

 それゆえ、知者の告げた命令[ドグマ]のいかなるものも偽でありえないことに疑いをもつことは不可能であり、さらに知者の告げた命令が偽でないことだけでは十分でなく、知者の告げた命令は確固として定められたもの、確定されたもの、いかなる理説[ratio]もそれを揺り動すことのできないものであるべきである。ところが、表象から知者の告げた命令のすべてが生じてくるのだが、表象は偽なる[表象]からいささかも異ならないと主張するこの人々の理説によれば、この通りではありえないし、そうであるように見えるということもありえないのである。

 

2.91–92(アカデメイア派の立場から話すキケロの発言)

理性によって把捉されうるものとは、何か?

あなた[ストア派の立場をとるアンティオコスを代弁するルクルス]は、「問答術が、真なることと偽なることのいわば審判者や判定者として考案された」と言う。

その真なることや偽なることとは、何のことなのか、そして何についての真や偽なのか。問答家は、幾何学における真なることと偽なることが何であるかを判断するのだろうか。あるいは、文学や音楽における真なることと偽なることを判断するのだろうか。

「いや、そういったことを[問答家は]知らない」[と、あなたは言う。]

では、哲学における[真なることと偽なることを判断する]のか? しかし、太陽がどれだけの大きさであるかということが、問答家にとってなんだというのか。問答家は、最高善は何であるかについて判断することができるような、何を持っているというのか。では、問答家は何を判断するのだろう。

「どの連言が真であり、どの選言が真であるか、どの命題が曖昧であるか、それぞれのことから何が帰結するか、それぞれのことと何が矛盾するか[を問答家は判断する]」[と、あなたは言う。] 

[問答術が]、以上のことやそれに似たことを判断するのであれば、[問答術は]自分自身について判断していることになる。しかし、[問答術は]それ以上のことを約束してしまっている。これらのこと[連言・選言の真偽や、論理関係など]を判断することは、その他の、哲学において重要な数多くのことを判断するのに十分ではないのに。

しかし、この技術にそれほどの重きをあなたが置く以上、その技術のすべてがあなた方に反対してはいないかどうか、調べてもらいたい。その技術は、まずは好調にかけ出して、議論の要素、曖昧さの解決法、推論方法について説明するのだが、少し歩を進めると、「ソリテス」にゆきあたる。それは、あなたが少し前に論証の悪しき種類だと言ったもので、大変滑りやすく危険な場所なのである。

しかしどうだろう。この悪質さは、われわれのせいなのだろうか。いや、ものごとの自然が、ものごとにおいて「どこまでか」を確定することができるような、限界についての認識をわれわれに与えなかったのだ。